東沢の風土

東沢の風土

 


東沢の自然

山形県の南部・置賜盆地のほぼ中央にあり、豊かな田
園地帯として知られる川西町は水田が広がり、田植え前
には水を湛えた田んぼのおかげで湖の上に町が浮いてい
るかのような美しい景色を望める。 そんな川西町の西
南部の東沢地区は、日本海側気候に属し、夏は暑く降水
量が少なく冬は粘り気のある雪が山ほど降り、雪下ろし
を怠ると家がつぶれてしまうほど。
  山を北へ越えた所に活断層が通るものの、集落の回
りは標高が220~523mのなだらかな丘陵地帯に囲
まれ山裾から集落のすぐそばまで数多くのため池が見ら
れる。
 人家はまばらで、災害時に人命に関わるような危険が
少ない中山間地域です。周囲の丘陵地帯はスギの植林地
以外にコナラ、クリ、ブナ、クヌギが混じる雑木林が広
がり、尾根にはアカマツの林が続く。
 春から季節が進むたびに山菜、キノコ、栗、橡、ほう
き草など食料や道具に使いやすい山の幸に恵まれている

  なだらかな丘陵地の地形は水がゆっくり流れ、水が
溜まりやすく湿地になる場所がいくつもあり、その一つ
が東沢自然学習園である。
 東沢自然学習園はため池の周辺に湿地が広がり、日本
一小さな蜻蛉ハッチョウトンボ、モウセンゴケなどの独
特な動植物がたくさん生息中。

地区の成り立ち(歴史)
歴史1 縄文時代
現在の東沢小学校の運動場をつくる際に打製石器、凹
み石が出土し、縄文時代から東沢地区に人が住んでいた
ことが伺える。
 当時の暮らしは稲を栽培せず、狩猟、漁撈、採集を基
本としたので、食料になる木の実やキノコ、それを食べ
る動物が集まる丘陵地帯が住みやすかった言われている

 そう考えると東沢は縄文時代から住みやすい地域だっ
たようだ。 
 また、東沢という地名の発祥は、東沢小学校が出来る
ときまでさかのぼる。 明治42年3月31日、大舟尋常小
学校と上奥田尋常小学校が併合し、東沢尋常小学校と改
称。
 当時は現在の東沢地区と隣の玉庭地区をあわせて玉庭
村と呼んでおり、校名に使われた東沢は玉庭本村に対し
て東の沢というのが語源である。
歴史 2 稲作

田と東沢

 東沢は、里山に位置するものの水の調達が難しい地形で、安定し
た稲作を行えるようになるまでには多くの努力を必要とした。 
 水田の標高は220~360m、面積は22.65平方キロ。東沢地区は南
部の山地を水源とし、北に流れる黒川、逆沢川沿いに開けた水田を
耕作する水稲単作地帯である。
 境界が分水嶺であることから、江戸時代から常習の干ばつ地帯で
あり租税が免除される「塊田仕付荒引」の地区だったこともあった

  当時の「元置賜村段別」によれば東沢地区の上奥田、大舟に合
わせて116カ所のため池が記録されている。
 水不足に悩む奥田村肝煎横山平左衛門が飯豊山穴堰を上杉藩に進
言した記録も残されており、実際に米沢藩は着工から20年の歳月を
要する穴堰掘削の難工事を1818年に完成させている。
  江戸時代の土木技術では、飯豊山から水を東沢に引くことはで
きなかったが、昭和56年に白川ダムが完成し、犬川黒川幹線用水路
の導水トンネルを通って幾星霜の悲願がついに実現した。

民俗・文化 
民俗・文化 1  草木供養塔
草木(供養)塔の起源は、米沢藩上杉鷹山公治世の安永9年(
1778)に遡る。この年4月に米沢城下中心部で大火があり焼失が千戸
に及び、復興のために大量の木材が伐りだされたことから、供養す
る塔を建てたのが始まりとされる。
 草木への感謝と供養の思想は大乗仏教の教えである。
 全国でも置賜地方にのみ見られる独特の信仰であり、昭和以前に
建立された50基の内、36基が旧南置賜郡三沢村、中津川村、玉庭村
にある。
 東沢には江戸時代以降に建立された3基の草木(供養)塔があり、
稲場山の「草木供養塔」は元治元年(1864)に建てられたものであ
る。
 新蔵峠の「草木供養塔」は東沢では最も古い文化13年(1816)に
建てられたものであり、川西町でも3番目に古い。この草木供養塔は
もともと地蔵前(太田和夫氏宅付近)の旧道路傍にあったが、水田
の区画整理事業が行われた昭和44年に散逸を防ぐため、地元の方々
によって新蔵峠に移転された。飯坂の「草木塔」は明治9年(1876)
に建てられたものである。

民俗・文化 2ワラニョウ

ワラニョウは高さ二メートル以上、高いもので四メートル
以上にもなる稲や藁が積み上げられ、お椀を伏せたような形
をしており、ニョウとは稲か藁を積んだものを意味する。
 手作業で農業を営んでいた時代、脱穀の済んでいない稲の
穂を内側に向け円状に積み上げ、蓋をして越冬するためのも
の。
 高くなるほど積み上げるには技術と体力が必要で、驚くこ
とに人によって十キログラム以上ある束を頭上高く放り投げ
ていたというのである。
 昭和四十年代から東沢でも農業の機械化が進み、昔ながら
の農業をする人は少なくなったと言われている。初めて田植
え機を導入した農家を、みな半信半疑で見ていたようだが、
今では「わらにょう」を積んでいるのは東沢でも一軒だけで
ある。
 その近辺を通ると、徐々に「ワラニョウ」が積上げられ
ていく様子や作業風景を見ることできる。
民俗・文化 3 キリハライ
宝船、扇子、鶴、亀、松などの吉祥紋や鏡餅、稲刈りの風
景など農家の一年の暮らしが描かれた切り絵である。
  東北では南三陸などの地域に同じような切り絵を飾る文化
がある。
 切り紙、切り子等とも呼ばれるが、東沢では切り祓い(キ
リハライ)と言う。2015枚ほどの組み合わせがあり、枚数が
増えるほどに様々な絵柄をみることが出来る キリハライはお
正月を迎える準備の一つであり、新しい年が良い一年になっ
て欲しいという願をかけ、年の瀬に飾る。
  昨年飾ったキリハライの上に重ねて貼るので、年々厚くな
り飾れないくらい重たくなると、年末の古札焼納祭で燃やし
てもらうとのこと。
 昔は時季になると米沢から売りにきたそうですが、現在で
は直接、神社へお願いをする。
民俗・文化4東沢の郷土資料
 東沢地区では歴史や文化を今に伝えるものとして、2冊の
資料(下記参照)が発行されている。
 「風土記 東沢」では、歴史・文化・生活など、「東沢の
昔の農作業と年中行事」では、農業全般の話や風習などが詳
細に記載されている。
 当時の暮らしや歴史を伝える貴重な資料だといえる。
【参考文献】
・『風土記 東沢』東沢風土記編集委員会編1994
・『東沢の昔の農作業と年中行事』
 東沢昔の農作業と関連年中行事の資料編集委員会編2008

民俗・文化5  御行屋

飯豊山は標高2105mで、山頂の飯豊山神社は会津柳津虚
空蔵尊の奥の院ともいわれ、江戸時代から昭和初期まで山岳
信仰が盛んであった。
 お山参りをするには行屋で精進潔斎の行をしてから登る。
 1~3週間家族と接触を絶ち、朝夕2回水垢離をとり、自分
で食事をつくり、寝泊りも行屋で過ごした。
 先達といわれる人の案内により1泊2日の行程で飯豊山神社
に参拝した。東沢には44の御行屋があったが、現存するのは
その内8棟のみである。

民俗・文化6  米沢鯉の水揚げ

 江戸時代、上杉鷹山の教えで民のタンパク源として広く鯉
の養殖が行われた。現在では、それが米沢鯉として置賜の特産品になっている。
 たくさん養殖されていた鯉も置賜では逆沢ため池1カ所とな
り、米沢の鯉屋さんにより降雪前の11月中旬40トン水揚げさ
れる。
 その様子は一つの風物詩として毎年テレビで報道される。

民俗・文化7  ヤハハエロ

 家内安全や豊作祈願などの意を込めて、正月に行われる行
事の一つ。
 正月に飾った門松や古い御札などを藁で覆い火をつける。
「貧乏持って行って、果報持って来い、ヤハハエロ」と叫び
ながら、無病息災を祈って身拭き紙と呼ばれる紙で頭や体を
拭き、その紙を燃やす。
 火の中で餅などを焼くこともある。東沢では現在でも行わ
れている行事の一つであり、ヤハハエロと呼ばれている。
 地域によってさいど焼き、ドンド焼きともいう。
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