東沢百景

東沢百景

東沢地区交流センター・東沢活性化センターでは、東沢ガイドマップを配布しています。 
ガイドマップに掲載している各ポイントをご紹介します。 

 

 

 1.旧須貝邸 

須貝久左衛門家は越後鮎川にいた館主。
 上杉の米沢移封に従ったとみられ、代々鳥屋触を勤めた。
上杉景勝夫人の甥にあたる公卿山浦玄蕃光則は京都から米沢に
移り、家臣団の筆頭に列し藩政を補佐した。
 キリシタン禁制が強化されると玄蕃にキリシタンの嫌疑がか
かり、正保元年(1644)12月から5年8ヶ月の間須貝家に匿われ
たが、承応2年(1653)幕府の命令により処刑。我が国唯一の
公卿切支丹殉教者といわれた。

草木供養塔の起源は、米沢藩上杉鷹山公治世の安永9年(
1778)に遡る。この年4月に米沢城下中心部で大火があり焼失
が千戸に及び、復興のために大量の木材が伐りだされたことか
ら、供養する塔を建てたのが始まりとされる。草木への感謝と
供養の思想は大乗仏教の教えである。全国でも置賜地方にのみ
見られる独特の信仰であり、昭和以前に建立された50基のうち
、36基が旧南置賜郡三沢村、中津川村、玉庭村にある。
 東沢には江戸時代以降に建立された3基の草木供養塔があり、
稲場山の草木供養塔は元治元年(1864)に建てられたものであ
る。
新蔵峠の草木供養塔は東沢で最古の文化13年(1816)に建てら
れたもので、川西町でも3番目に古い。
 この草木供養塔はもともと地蔵前(太田和夫氏宅付近)の旧
道路傍にあったが、水田の区画整理事業が行われた昭和44年に
散逸を防ぐため、地元の方々によって新蔵峠に移転された。
 飯坂の草木塔は明治9年(1876)に建てられたものである。

曹洞宗で山号は高松山。寛永15年(1638)4月、米沢林泉寺
18世一信泉咄大和尚が開山。林泉寺15番目の末寺である。文化
6年(1809)再建。才秀院には山浦玄蕃の作と伝えられる地蔵
尊の石像一体が安置されており、昭和48年2月16日に川西町指
定有形文化財となっている。
 山浦玄蕃光則は、上杉景勝夫人の甥にあたり、切支丹の嫌疑
がかかったことから承応2年(1653)幕府の命令により処刑。
 我が国唯一の公卿切支丹殉教者と云われている。”

 東沢地区は、周囲を分水嶺に囲まれ、稲作に欠かせない水を
確保するため古くから堤(ため池)が作られてきた。
 堤周辺には湿地が多く、日本一小さいハッチョウトンボ、食
虫植物のモウセンゴケなど、貴重な動植物が生息している。
 平成19年にこれらを身近に観察できるよう、農林水産省の中
山間直接支払交付金を活用し、木道や案内板を整備した。

熊野神社の御神木。伝説では紀州熊野神社のみ
ことが大舟の地に来るとき舟に乗ってきた。
 その舟を伏せたのが「舟山」で、舟を漕いだ「櫂
」は麓の山中に立てられ、それに根がつき葉が生い
茂り松となったのが裸松の由来といわれている。
 明治19年(1886)火災に遭い、それを境に枯れて
しまった。明治21年(1888)に村民が言い伝えのあ
る御神木の霊をまつる為「神松霊」碑、昭和60年に
被災後百年の供養塔を建立している。

 7.熊野神社 

明治14年(1881)の羽前国南置賜郡山形県神社庁
備付明細帳によれば「玉庭村内神社、郷社一、村社
九、無各社一、計十一社」と記載されており、熊野
神社は最高格の郷社である。
 創建は仁安元年(1166)で、長井氏、伊達時代と
も代々の領主が崇敬。
 応永4年(1397)伊達儀山正宗(九代)が社殿を
再興、鰐口には応永4年の年号が記されている。
 現在の社殿は文化11年(1814)に社殿が火災に遭
い、文化12年(1815)に再建されたものである。

逆沢ため池は東沢最大のため池で、その受益面積は大舟、
上奥田、下奥田の155haに及ぶ。
 逆沢ため池が構築されたのは文化元年(1804)であり、そ
の後嘉永5年(1852)に7尺余、文久2年(1862)に3尺余の
土手上げを行う。
 昭和10年に漏水による堤塘決壊の大惨事があり補修を行っ
たが、昭和26年老朽化したため工事に着工。
 昭和29年完成したのが現在のため池の原型。
 上杉鷹山の時代からの鯉の水上げは秋の風物詩でもある。

嘉永6年(1852)の干ばつ、大正15年から昭和2年にかけて
3年連続干ばつがあったことから、逆沢堤水下で新堤の構築が
議された。中ノ沢の地が適地とされ、昭和6年この地に新堤を
構築することとし中ノ沢耕地整理組合を設立し、昭和7年着工、
10年に竣工した。老朽化が進んだことから、平成10年度に県営
土地改良事業(ため池等整備事業)着工、堤体、洪水吐、取水
施設等全面改修を行い、平成18年度竣工した。

玉庭中学校東沢分校の閉校(昭和59年)を記念して植樹され
た桜の管理を目的とし、平成元年に地域住民有志が「東沢愛桜
会」を設立した。
 平成8年愛桜会が日本花の会から寄贈されたソメイヨシノ約
40本を植樹し、「さくら咲く里公園」と名づけた。
 住民の憩いの場として将来桜の名所になることを夢見て、維
持管理を行っている。
 平成21年県営中山間地域総合整備事業による農村公園として
、東屋、遊歩道、水飲み場、街灯が設置された。

平成5年度から自治省の補助事業である「コミュニティ活動活
性化推進事業」の指定を受け、「地域の歴史、文化、伝統を守
り、都市と農村の交流を図って地域の活性化を図る」という目
標の下、行った事業の一つが炭焼き窯と小屋の設置であった。
 炭焼きは石油が一般的になるまでは冬の暖をとるのに欠かせ
ないものであった。
 窯づくりの指導を米沢市の黒田氏に依頼し、歴史と技を伝承
しようとこの炭焼き窯と小屋を建設した。

 13. 飯坂ため池 

東沢は古くから堤(ため池)を造ってきた。
 飯坂ため池は肝煎佐々木源左衛門の主導により天保以前に構
築された。記録によれば天保4年(1833)嘉永6年(1853)明
治20年(1887)大正3年(1914)に堤の嵩上げや補修を行っ
ている。
 昭和38年に老朽ため池工事が完成、昭和41年には開田の気
運が高まり2.5mの嵩上げ工事を行い現在の姿となった。

 14.二渡神社 

二渡神社は上奥田村の村社として信仰されてきた。
 当社の祭神は天照大神で、元禄8年(1695)伊勢参宮、熊野
神社参詣に出かけた当村清左エ門が勧請し、別称御伊勢堂と呼
ばれている。
 現在の社殿は文化年中(1804~1817)に建立されたものと
みられる。
 なぜ御伊勢堂が二渡神社となったのかは伝承がない。
 例祭は9月1日、日本各地で二百十日に行われる風祭りであり
、収穫前の農作物が被害に遭わないように祈る。

 15.桂岩寺 

曹洞宗で山号は増沢山。
 寛文3年(1663)佐々木源左衛門忠長が米沢の林泉寺19世渓
巌曹雪大和尚に帰依。佐々木家の裏に堂宇を建立して開山に迎
え、一族の菩提寺としたのが始まり。
 安永年間(1772~1781)に火災に遭い焼失。その後現在地に
再建され、元の堂宇があったところに十王堂が建立されている

 境内にある佐々木綱茂生碑は安政4年(1857)奥田村一村中
がその徳に感謝し建立したもので、東沢の生碑では一番古い。

 16.柳沢館跡 

柳沢館(やなぎさわたて)は上奥田脇ノ沢にあり、地元では
「たてのやま」と呼んでいる。
 川西町には70ヵ所以上の中世城館跡があり、柳沢館跡は比較
的新しい館跡で戦国時代のものと推定される。
 誰が築いたか明らかでなく、この地に居住した武将が外敵防
御のために築いたものと考えられる。幾重にも空堀がめぐらさ
れ、虎口(出入口)も残っており、代表的な中世城館跡として
貴重な史跡とされている。

 17.東泉寺 

 曹洞宗で山号は柳沢山。元禄元年(1688)上小松村の亀松山
東陽寺17世命山松寿和尚が寄末寺として開山。
 鎮守薬師如来を堂の前より勧請し、一宇を建立したのが起源
といわれ、御本尊の薬師如来が柳の木で作られていることから
、柳沢山と称したと伝えられている。
 天明4年(1784)に山門新築、工藤五右衛門の寄進とする板
書が残されている。
 明治37年1月火災に遭い、明治38年(1905年)に再建された

昭和26年のサンフランシスコ講和条約を記念し、
置賜一円の戦没者供養の観音銅像建立が行われた。
大規模な寄附募集に取り組み、その結果多額の寄付
が寄せられた。
 青銅慈母観音像は愛知県安藤菊男氏(二科審査員
)本尊木造は東京の尾形喜代治氏(日展審査員)に依頼した。
 落成式は昭和28年11月10日。
 置賜一円(米沢市、東、西、南置賜郡)の戦没者
英霊の名前が記された簿冊が台座に納められている

 19.薬師堂 

柳沢の鎮守として東泉寺境内を見下ろす山中に薬師堂がある。
薬師仏は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といわ
れ、東方にある清浄で透明な瑠璃世界の教主。民衆を救うため
に、十二の誓いを立て、万病を治すと共に心の悩みを消す仏で
ある。
 第七の誓いに「一切の諸病を除いて心身安楽にして、無上の
菩提を得しむ」とあり、左手に薬壷を持ち、右手を肩にあてる
姿から「薬師」と呼ばれた。
 薬師堂の祭日は9月8日。

 20.御行屋 

飯豊山は標高2105mで、山頂の飯豊山神社は会津柳津虚空蔵
尊の奥の院ともいわれ、江戸時代から昭和初期まで山岳信仰が
盛んであった。
 お山参りをするには行屋で精進潔斎の行をしてから登る。
1~3週間家族と接触を絶ち、朝夕2回水垢離をとり、自分で食
事をつくり、寝泊りも行屋で過ごした。
 先達といわれる人の案内により1泊2日の行程で飯豊山神社に
参拝した。
 東沢には44棟の御行屋があったが、現存するのはその内8棟
である。

東沢夢工房は「東沢婦人漬物研究会」を継承。
 平成20年2月に設立された。主に漬物生産販売を行っており、
地区内の主婦3名で郷土料理の伝承と商品開発に取り組んでいる

 地元の野菜を使って、添加物を使用しない手づくりの商品は
、みそ漬・キムチ漬・あさ漬・醤油漬・酢漬・仕出し・弁当と
種類も豊富。地元スーパーや東京のアンテナショップなどにも
出店し、幅広く活動中。 

東沢活性化センターは東沢地区の活性化と地域づくりの拠点
として平成22年に整備された。多目的ホール、調理実習室、会
議室などを完備し、地区行事や視察研修等に利用されている。
 施設を管理する「東沢地区協働のまちづくり推進会議」では
、地区の標語である「自信あります東沢、食と自然とあたたか
さ」を目標とし、様々な交流事業を通じて地域づくり活動を行
っている。 

東沢の田園風景に点在する茅葺屋根の民家は、新潟蒲原の大
工の流れをくみ、牛馬が同居する曲がりや造りが多い。
 屋根の材料は「かや」すすきを使用し、4~5年で葺替する。
 特に煙り抜きの破風、ぐしの鞍垣などのある民家は茅葺とし
ての格調が高い。
 散居村集落である東沢の原風景としていつまでも残したいも
のの一つである。 

 米沢藩上杉家の縁者で、キリシタン信徒山浦玄蕃光則が、
元大舟村の須貝久左衛門家に人目を避けて匿われた。
 その時に胸に十字架の印のある石の地蔵尊をつくり、礼拝信
仰していたといわれ、マリア地蔵とよばれ才秀院に伝えられて
いる。
 その後、幕府のキリシタン弾圧は厳しさを増し、ついに承応
2年(1653)斬罪に処せられることとなり、米沢の相生町極楽
寺で斬首された。
 地蔵尊は昭和48年2月に川西町の有形文化財に指定された。

 25.経筒 

経筒は世の平安を願って鉄や銅製の筒に仏教の経文を書いて入れた
ものであり、経筒が埋められた場所が経塚である。
 大舟の経筒は、熊野神社東の経塚から出土したもので、円筒形金メ
ッキ銅製、全体の大きさは、高さ約11cm、太さ約4.5cm。
 この経筒を埋めたと思われる弘冶3年(1557)の年号と、武州(現
埼玉県)成就坊(僧侶)の銘が刻まれている。
 経筒は木村氏が所蔵し、昭和48年2月に川西町の有形文化財に指定
されている。 

 26.寺子屋 

江戸時代後期になると、学問が奨励され、農
村でも寺子屋が開かれるようになった。東沢で
も上奥田の佐々木知嗣(佐々木一宏氏先祖)
佐藤彦捻(佐藤修氏先祖)大舟の大木昌訓
(大木義孝氏先祖)鈴木伝左ェ門(木村昭和氏
先祖)などの功績が伝えられている。
 写真の石碑は、佐々木知嗣生碑。
 文久2年(1862)に建立されたもの。知嗣は
私塾の師範をしていたといわれ、学問師範(和
算)の功労を讃え門下一同が建てた。
 碑は佐々木家邸内にある。

 27.同窓の碑 

昭和59年4月1日、川西町中学校第一次整備計画により、小松
地区の新山中学校、東沢地区の玉庭中学校東沢分校が統合、川
西中学校が誕生した。
 37年の歴史を想い、東沢分校と前身である東沢中学校同窓生
952名の心のよりどころとして昭和58年9月完成。
 翌年3月20日除幕された。
 我がふるさとと、学舎への思いが込められている。 

東沢小学校の体育館入口の2階に、教材としてある程度の貴
重な農民具が収集保管されていたが、さらに地域の方々の協
力により約200点もの農民具が追加収集された。
 収集展示の場所に、元川西町農協東沢支所の旧店舗を借用
し、平成7年7月25日に昔の農民具展示室を開設した。
 以後一般公開と保存管理を継続している。

江戸時代、上杉鷹山の教えで民のタンパク源として広く鯉の
養殖が行われた。現在では、それが米沢鯉であり置賜の特産品
である。
 たくさん養殖されていた鯉も置賜では、逆沢ため池1カ所とな
り、米沢の鯉屋さんにより降雪前の11月中旬40トン水揚げされ
る。
 その様子は一つの風物詩として毎年新聞・テレビ等で報道さ
れている。

明治42年(1909)に、大舟尋常小学校は上奥田尋常小学校を
併合して、東沢尋常小学校と改称し、上奥田、大舟の統合学校
が設置された。
 就業年限は6ヶ年で、補習科を廃止した。この校名となった
「東沢」は現在地区名として定着しているが、この時初めて造語
されたものであった。
 これは、玉庭本村に対しての東の沢というのが語源である。
 教育の発展が地域名の発祥となり、その後の地域の基礎とな
っている。 

 31.教育の森 

昭和57年2月現校舎落成の前年に計画を策定57年6月着手、
59年現在の大半を完成した。
 林内マラソンコース、ターザンロープ、樹木草観察、せせら
ぎの池、花壇等々が配されている。
 子供達が自然の中で駈け跳ね唄い、健やかな成長を願う地区
民の伝統的な教育への情熱と地域関係団体との一致した血と汗
の結晶である。
 老朽化もあり、2016年秋に東北芸術工科大学の学生の手によ
って修理・改築が行われた。

 東沢グラウンドは、東沢小学校の裏山を造成整備、山の上の
グラウンドとして活用されている。グラウンドの造成は、小学
校の先生が舟山の上が比較的平坦であることに着眼し、皇紀
2600年記念事業として昭和15年~16年青年団や地区住民によっ
て、立木の伐採、伐根、整地などが人力手作業の労力奉仕で行
われた。
 さらに、昭和29年、38年に拡張工事を行い、小学校の授業や
地区体育祭など広く利用されている。

昭和27年頃、町村の公民館として一応の体裁を整え青年学
級、青年団の活動の場として利用されていた。
 昭和30年町村合併により、各地区公民館として発足し、その
後専任主事が置かれ、住民との密着度が高まり、事業の幅も広
がる。
 昭和48年12月、生活改善センターとして建設、その後地区公
民館、地区交流センターとして様々な事業に活用されている。

 

 34.農村公園 

 町は昭和51年度に農村総合整備モデル事業の国の採択を受
け、以来平成5年度で全事業が完成した。
 その事業のなかで小松・犬川地区を除く5地区に農村公園が
作られたものである。
 地区住民及び子供達の憩いの場であり、地区の拠点施設で
ある。
 当公園は他地区の公園と異なり池があり流水により涼を求
めることができるのが特色である。

 

昭和13年2月6日大舟郵便取扱所として、山形県で240番目の
郵便局として開局になる。
 以後、明治4年(1871)に新式郵便制度が確立され、社会の
変革とともに制度は改変されて来たが、今日においても設立の
目的は不変である。
 現局舎は昭和47年11月26日完工。

 東沢地区では歴史や文化を今に伝えるものとして、2冊の資
料(下記参照)が発行されている。
 「風土記 東沢」では、歴史・文化・生活など、「東沢の昔
の農作業と年中行事」では、農業全般の話や風習などが詳細に
記載されている。
 当時の暮らしや歴史を伝える貴重な資料だといえる。

【資料】
・「風土記 東沢」 東沢風土記編集委員会編 1994
・「東沢の昔の農作業と年中行事」 
・東沢昔の農作業 と関連年中行事の資料編集委員会編 2008 

家内安全や豊作祈願などの意を込めて、正月に行われる行事
の一つ。正月に飾った門松や古い御札などを藁で覆い火をつけ
る。
 「貧乏持って行って、果報持って来い、ヤハハエロ」と叫び
ながら、無病息災を祈って身拭き紙と呼ばれる紙で頭や体を拭
き、その紙を燃やす。
 火の中で餅などを焼くこともある。東沢では現在でも行われ
ている行事の一つであり、ヤハハエロと呼ばれている。地域に
よってさいど焼き、ドンド焼きともいう。

 

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